1日は映画の日だったので、長女氏と一緒に「風立ちぬ」を観てきた。
次女氏ならびに長男氏とみーちゃん氏は、児童会で観てきている。
彼らの評判は悪かった。飛行機ものだったので、長男氏はそれなりに楽しめた様だ。
夜になって、宮崎駿監督が長編アニメーション映画の製作から引退することを、スタジオジブリが正式発表した。
「風立ちぬ」で主人公の夢の中に登場するジャンニ・カプローニ伯爵に、「人が最もクリエイティブに全力を発揮できる10年間を大切にしなさい」といったニュアンスのセリフを言わせている。
宮崎駿監督にとっての10年間は、「未来少年コナン」から「となりのトトロ」までの1978年から1987年だったのではないかと感じている。
近藤喜文さんが健在であったなら、「紅の豚」が長編最後の作品であったかも知れない。
「もののけ姫」以後は、スタジオジブリを守るために長編作品の製作に挑んでいたのだろう。
結局、宮崎ブランドとジブリブランドは同義である。ここを払拭できなかったのは、高畑勲監督のジブリに対する責任感が今一歩だったからかな。
高畑監督作品は商業主義に囚われないとする方針なのかも知れない。
そもそも、演出家をブランドとして全面に押し出すのがジブリのスタイルであったのだから、仕方ないのか。
劇場映画では、当たり前なやり方だしね。
宮崎吾朗監督の「コクリコ坂から」は秀作と思ったが、米林宏昌監督の「借りぐらしのアリエッティ」の興行収入の半分ほどでしかなかった。
これは、前作の「ゲド戦記」で期待を裏切られた反動だろう。
主人公が高校生の青春ものというのも、関係しているだろうけど。小学生以下の子連れが観るには、ちょっと選びにくいテーマだ。
宮崎駿監督は、長編アニメーションの脚本からも引退してしまうのだろうか?
吾朗監督作品を、もう2本くらいは面倒見ないと、ブランドを引き継ぐことが難しいのではないかと少し心配してしまう。
今で言うブラック当たり前なかつてのアニメーション製作の中で、一般の大企業と変わらない就業条件を提供する会社を設立して優秀な人材を繋ぎとめるのが、スタジオジブリの意図だったと記憶している。
そのため、製作スケジュールをよりコントロールしやすい劇場用長編アニメーションを専業としたのだそうだ。
ジブリは、送り出す作品を失敗させる余裕はあまりないだろう。
これからの10年で、宮崎駿監督の代わりとなるブランドを持てるかどうかが勝負。
宮崎駿監督の長編引退のニュースを聞いて、そんなことを思った。
さて、「風立ちぬ」。
とても面白かったが、観客に何を伝えたかったのか、テーマが希薄な映画だった。
この企画を鈴木プロデューサーが宮崎監督へ相談した時、監督は子供向けでないことを理由に反対したが、企画スタッフの一人が「映画を観たときはわからなくても、いつかわかる時が来る」との意見で翻意したそうだ。
零戦を設計した堀越二郎という実在の人物を主人公に、堀辰雄の小説『風立ちぬ』をオマージュした恋愛要素を付加している。
そのため、架空のヒロインが登場する。
全編ファンタジーな作りで、主人公が見る夢(睡眠中に見る夢)の描写も多い。
東京大学生の主人公が実家での夏休みを終えての上京中の車両の中で、ヒロイン菜穂子と出会う。
満員の三等車両で幼子を抱える婦人に席を譲り、風渡るデッキに出てステップに腰かけ本を読んでいると、急な突風で彼の帽子が飛ばされる。その帽子を、二等車両のデッキに出てきていた少女が受け止める。
少女は帽子を掴むためデッキの手すりから落ちそうになるが、そこはすかさず二等のデッキへ飛び移った主人公が、後ろから抱きとめて事なきを得る。
少女菜穂子が主人公へ帽子を手渡す時、「ル ヴァン ス レヴ(風が立つ)」とつぶやき、「イル フォー タンテ ドゥ ヴィーヴル(生きようと試みなければならない)」と返す。
菜穂子は、相手の値踏みをし、主人公は見事応えたというところか。
自分にとっては全編こんな感じで、とくに主人公とヒロインの最初のやりとりはタイトルまでにもなっているのだが、当時の一般大衆から乖離した人々のおしゃれな演出としか心に残らない。
ストーリー中に開戦(太平洋戦争)したが、戦局もほとんど描かれない。
ヒロインと再会する軽井沢のホテルでは、ゾルゲらしいドイツ人が脇役として登場するが、彼にヒトラー批判のセリフを少し言わせるだけで、登場する頻度の割に物語を動かさない。
この邂逅により、特高(特別高等警察)が政治犯として主人公に目を付け、主人公が勤める会社(三菱内燃機製造株式会社名古屋工場)が全力で特高から守ることが宣言される。
ただし、「守るだけの価値がある間」と上司が釘を刺す。
この辺りは、今までの戦中ドラマではあまり描かれなかった事実なのだろう。
ヒロインが去り、主人公が目指していた理想の飛行機に近い試作機のテスト飛行が成功したシーンの次は、敗戦後の主人公の夢の中の情景で幕を閉じる。
その夢の中でヒロインと再会するシーンを観た時、主人公はヒロインが去った後は夢すら見ることが叶わなかったことを感じる。
「風立ちぬ」は悲劇を明瞭に描いていない。ヒロインが主人公に、美しい自分しか見せなかったように。
劇中のエンジニアたちは、戦争の道具を生みだすことに懊悩としないし、貧困を目の当たりにしても仕方ないこととして受け入れる。
それは、ちょっと話題になったタバコの扱いと同じで、当時のリアルな雰囲気なのだろう。
しかし、菜穂子との恋物語などフィクションを入れて、主人公の夢のシーンに尺を割き、ファンタジー色が強い描き方をしているのだから、「ハウルの動く城」で描いたような、兵器が人々を蹂躙する無慈悲な描写を加えても良かったのではないかと感じる。
反戦を訴えたいのなら、もっとあざとい演出がわかりやすい。劇中で主人公が糾弾されて終わるというのもありだろう。
この映画を観た少年少女たちも、「いつかわかる時が来る」としたいなら、反戦につながる印象深い強烈な映像描写もあってよかった。月並みな手法かも知れないけど。
もっとも、これはジブリ作品であって、やはり子供たちに夢を与える善良な作品としての体裁は重要なんだろう。
それこそが、スタジオジブリであり、観衆もそれを期待しているのだ。
それに、ジブリの作品は繰り返し観られるものだ。
「風立ちぬ」も、来春にはセルビデオになるし、レンタル視聴できるようになる。
再来年の夏には、日テレ系列で地上波テレビ放送もされるだろう。
一期一会のように映画を観ていた時代とは違うのだから、淡白な演出がスマートなのかも知れない。
演出家を冠した作品作りとは言っても、ジブリとしてのガイドラインはある。
宮崎駿監督が引退することで、近い将来、ディズニー同様にスタジオジブリの作品も、ジブリ作品としてブランドが確固になれば良い。
それは、これからの10年でどれだけ優れた作品をリリースできるかに掛っているのだろうな。