初めての自転車は小学校一年生の時に買い与えられたものだった。
実用車の子供版といった構成で、ロッド式の前後ブレーキ、フルカバーされたチェーンドライブの空色の自転車だった。
当時は仮面ライダーが始まったばかりで、サイクロン号を模した子供用自転車が欲しかった。
それが叶わず、なんの相談もなく買い与えられた自転車に不満タラタラだったことを憶えている。
父は自分の趣味を最上と思っていたふしがある(苦笑)。
補助輪は初夏に取れたと思う。しかし公道に出るとコーナリングスピードの感覚がイマイチで、いきなりオートバイ屋のシャッターに突っ込んで怪我をした。
この自転車はその後4年間もお世話になり、小5になって今で言うシティサイクルに取って代わった。外装5段変速付きだったけど。
その当時はスーパーカーブームの影響か、自転車はデコちゃりが流行っていた。
デコちゃりはトップチューブに自動車のオートマレバーの様な変速レバーが付いた黒いスポーツサイクルで、フロントキャリアにはウィンカーと一体になった左右二灯のライト、リアキャリアには大きなストップランプにウインカーと電池ボックスが一体化したものが付いていた。
中にはフロントライトがリトラクタブルになった製品もあった。
今思えば不思議なものだが、当時はたまらなく魅力的な自転車だった。
しかし、知らぬ間に艶消し黒のフレームがあやしいシティサイクルが届いた。
またまた不満だったが、前カゴ付きで変速器まで付いた自転車はなかなかに使い勝手良く、前照灯は左右振り分けの二灯式だったし、自分でデコちゃり化する技量も身につけてたから、工夫して流行に後れることなく活用していた(笑)。
バイトで小金持ちだったから、小6になって自分でランドナーを購入した。
その頃、BSのロードマンを筆頭にナショナルのタムタムロードなどのスポーツサイクルが流行りだしていた。
そんなブームに乗った形。
購入したのは、ちょっとお高めのBSユーラシアで、しもしない輪行仕様なのが気に入ったから。
26インチ車だったと思う。クロモリフレームに空色の塗装、ブレーキは前後カンチだった。
前2段、後ろ5段だったかな。コンポは憶えていない。ってか、興味なかったし。
専用フェンダーの先に付けられた砲弾型のライトが格好良かった。
ハブもリムも軽合金製で、車重は13kg程度だったと思う。ロードマンクラスは16kgほどだったから、かなりの軽量モデルだと威張ってたような気がする(苦笑)。
ユーラシアは随分乗り回したけど、結局遠出をしていない。
当時のテリトリーは非常に狭く、今のように数時間で100kmとかを走破するなんて考えもしなかった。
時間も体力も有り余っていたはずなのに、勿体ないことだ。
ユーラシアはバイトでも利用していたが、分解好きなことが祟ってBBタップを駄目にしてしまいうっちゃってしまった。
しかし、運良く近所の方からスポーツ車を譲り受けることになった。
Wレバーは直付けで、リアブレーキケーブルがトップチューブに潜り込む仕様の黄緑の自転車だったが、メーカー名もグレードも憶えていない。Uブレーキだったことだけを憶えている。
バンド式で鉄製のWレバーが付いたユーラシアに比べ、直付け台座にアルミレバーが付いていたから、結構な高級車だったと思う。
しかし、フォークやホイールはユーラシアのものの方が軽かったから、フレーム全体を金色に塗り替えて、二個一にして乗っていた。
この自転車は5年ほど乗っていたけど、その後にばらした状態で知人に譲った。
その後はママチャリしか持たなかった。
就職して自動二輪の免許を取り、ヤマハのFZ250 PHAZER YSP仕様を新車購入した。
4サイクル4気筒4バルブDOHCの水冷エンジンで、45PS/14500rpmというバブリーな仕様だった。
当時はスズキのRGΓから始まったレーサーレプリカブームだったが、SFぬえがデザインしたかのような未来の戦闘機っぽいデザインも新鮮だった。
唯一不満だったのが、ドラムタイプのリアブレーキ。しかし、YSP仕様はブラックにレッドと金縁ラインといった専用色に加え、リアブレーキもディスク化されてトリプルディスク仕様になって限定発売された。価格は55万円ほどだったと思う。
これが、自転車にとって変わったボクの足だった訳だ。
黒と赤のカラーリングに合わせたブーツやグラブ、ジャケットを揃えた。ヘルメットはBMWのシステム1で、バリ伝の巨摩仕様ヘルメットデザインをちょっとパクった赤ラインを黒ベースで引き、金テープで縁取ったハンドペインを施していた。このメットは、実家のどこかにまだ仕舞われてると思う。
ちなみに、FZ250はマイナーチェンジ後にトリプルディスクブレーキとなった。
それから順当に車を購入し、幾度かの転職や結婚、子供ができたりで、かつてはまっていたテニスもウィンドサーフィンもスキーすら、遠い過去の出来事になった。
何故か体型は大きく変わることが無かったけど、歳を経るごとに病気がちとなっていった。
そんな時、和田サイクルさんでスポーツ小径車に出遭った。
特に気に入ったのは、多段化されたトレンクル6500だったが、26万円超という価格はちょっと出せない金額で、こんな世界もあるんだって程度でそれっきりになる筈だった。
しかし、ドイツ設計のハンディバイクに出遭う。
6インチという冗談の様な小さなタイヤ、スティック状にワンタッチで折り畳めて、前輪をコロにして持ち運べるという発想が素敵だった。
そして、各部の作りの良さに、メカフェチの血が沸々と。しかも、2万円そこそこで入手できるチャンスがすぐに来た。
後は、ここまでこのブログをお読みになった方ならきっとご存知の通り、乗り回し改良するというループを楽しみつつ、自転車であちこち走りまわるということにはまり込むことになる。
いつの間にか、あまり風邪をひかなくなった。春先の扁桃炎も影を潜め、精神的にも以前に増して安定した日々を送れるようになったと思う。
これら総てがハンディバイクの影響と言うのはオーバーかも知れない。でも、スポーツから遠ざかっていた身には、丁度よい運動になっていたのだろう。
昨年末、和田さんのアドバイスを受けてシクロクロス車を買った。
Brodie JOJOという入門車だが、より速く、より遠くへ、そしてどこにでも行くことができるようになった。
そして、もっと速く、もっと遠くへ、更にもっときつい坂をどこまでも高く登って行きたいって思うようになる。
カレラロールを手に入れ、そしてスペシャのアレーまで買ってしまった。
加えて、今月末にはツーリング車も譲り受ける予定だ。
ツーリング車をお友だち夫婦から譲り受ける条件として、自転車の台数を増やさないという約束があった。
そのため、弟に一台を託した。
そして今回、アレーを買う条件に、カレラかJOJOの処分を求められる。
室内保管しているので、仕方のないことだ。置く場所が無いのだから(苦笑)。
しかし、より速く高く登るにはアレーが必要だから、なんとかしたい。
バリエーションからはカレラの処分が適当かも知れないが、固定ギヤで走るカレラの爽快感は一種独特で、どうしても踏み切れない。
結局、使用頻度が減ってしまった極小径車を贄に差し出すことになった。
2台分のスペースがあれば、アレーを代わりに置ける。だが、使わないなら箱に入れて納戸へ仕舞うこともできるのだ。でも、それではお世話になった自転車に申し訳ない気もする。
使ってこその道具、乗ってこその自転車だから。
未練たらたらながら、乗ってくれる人がいらっしゃるのなら、それが良いと思うのだ。
そんな次第だ。H氏よ、申し訳ないが暫くは700C主体で楽しむことにする。
アレーもロールも実用重量が8kg切っているから、輪行もわけない。トゥーランにも入るし、都内で輪行することはまず無いから、乗らないものから手放すことになってしまう。